Something new

連載小説、カフェレシピ、
そして近況。

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 森の夢見師
  4. 〖第3話〗

〖第3話〗

また一人でいる時間が多くなった。
その時間の多くを、僕はスケッチブックに絵を描く時間として過ごした。
しばらくそこに描かれる絵のモチーフの多くは、記憶の中の小春だった。

「どうも僕の絵は、その人の真実を描こうとすると、人間くさいというか、醜いというか、ようするに暗くなってしまうんです」
僕は自分の問題とする点を師に訴えた。
そのとき、師が感情や情緒の言葉で絵を語らないということをすっかり忘れていた。

「絵というのは二次元の物質だ。描かれているのは三次元の物質だ。そもそもこの時点でトリックなのだよ。
このトリックとしての存在が絵画芸術となり得るのはいったいなんでだと思うかね。
答えはひとつではない。問いはひとつでも、それを考える人それぞれの中にその人にとって最もベストな答えが産まれる。お前もその問いを考えてみなさい」

それを聴いてふと何かを想い、僕は自分の顔から険しさがすーっと消えていくのが分かった。
「絵は、立体のある一面しか切り取れないんだ。見えていない部分がそこには確かにある。どんなものごとにも明るい側面があるし、暗い側面がある。はたまたその両方が見える側面もある。ものごとを色んな角度から見て、自覚を持って描く角度を決めることですね」

師は、僕の気づきをただ浴びるように佇んでいた。

それ以降、師はより積極的に僕に絵の仕組みについて語った。

「よいか、優れた絵描きというのは絵の中に入れなければならないのだよ。
お前の描いたこの静物画の中に入って、果物や卵の置かれたテーブルの後ろへ周って見てみることが出来るか。それが出来たなら、この静物らが今この角度をこちらに向けているのがベストなのか分かるはずだ。つまりこの角度で構図を切り取ったのがベストかどうか、だな。
あるいはテーブルの上の白い卵型の球体を手に取り、重さや手触りをよく感じてみる。それが本当に卵かどうかわかるだろう。それでも分からなかったら床に落としてみるがいい。もしそれが割れたら卵だってはっきりする。だがもうそのときには卵は絵の中から消えてしまうがのぉ」
そう言って、わっはっはっと口を開けて笑ってみせた。

師の言葉は、まるで魔法使いが弟子に大切な呪術を伝授しているかのように僕には響いた。続く師の声がかすかに重さを帯びた。

「大切なのは、絵の中には時空間があるということだ。その時空間を整え、そこへの扉として二次元の絵を描き、そして完成させることで封印する。それによっていつの時代からでも、しかるべき人間がその扉をくぐって絵の時空間へ入っていけるというわけだ」         

僕は時々、自分の居場所が分からなくなる。どこにいても異邦人という気がしてきてしまう。
自分の記憶の中に存在する街へ帰ろうとして、その実際の街に足を運ぶのは、そんなときなのかもしれない。
そして今回もまた、そのときがやってきた。

TIME~今がその時だ~、そうデザインされた袋を手に取った。
しばし目を瞑り、その袋を開けて中からコーヒー豆を出し、挽いてドリップして香りを味わう自分を想像した。
ゆっくりと目を開き、袋を棚に戻し、次いで隣りの袋を手に取る。

IMAGINE~求めるのは想像力~、そうパッケージは詩っていた。
今度は香りを想像の中で嗅ぐことなく、すぐにレジへ出し清算した。
笑顔のとっても素敵な女性の店員に送り出されてカフェを後にして、駅への道を進んだ。

その駅は、彼女と同居する前に僕がしばらく一人暮らしをしていた時期の最寄り駅で、久しぶりにそこを訪れていた。
きっかけは夢の中にこの駅名が出てきたからだった。
僕の中で時間が止まっていたその街に、久しぶりに行こうと思った。
そうすることで僕の中にだけあるその街の時間を更新したい。
その想いが僕の足を運ばせた。

玉手箱を開けたように、僕の中のその街は、今の僕と同時間の世界へ還ってきた。
あるいは、記憶というタイムカプセルに閉じこめてあったその街を僕は、IMAGINEと共に、僕の今の世界に持ち帰ってきたのかもしれない。

「体が透き通っていくなんて、それは明らかに原理に反したことだね」
友人の言葉はサラッとして僕に響いた。それは僕にできるだけ心理的ダメージを与えまいとする友人の心遣いの言葉だった。彼は自身が病んで心療内科に通って以降、非常に即物的に世界をとらえるようになった。

「その通りだよ」

半分透明になりかけた手を見つめながら、僕は自分に言いきかせるようでもある声のトーンで答えた。
僕の気配も消えかかり、友人は一瞬誰と話しているのか記憶をたぐり寄せてから語りかけた。
「病んでいると言えば確かに本当に“止んで”いるよね。でもね、おまえがそうして消えようという意図が勝手に作動してしまうってのはさ、非常に原理にかなっていると思う。誰しも年がら年中、自分の行為を意識的にコントロールしていないもんな。オートマチックなもんだよ、人間という生き物だってさ、それも非常に高度にね」
理系でもあった友人らしいその言葉がさらに続いた。
「重要なのはさ、そのオートマチックを作動させようとしたおまえの意図の方なんじゃないかな。そもそもおまえの中に現れた壊れやすい何物かがいったいなんだったのか、そしていつまでそれは管理しなきゃならないのか、それらが分からないままでは、君の意図はオートマチックを解除しようとしないのではないかい?」

彼女が部屋を出ていってからしばらくして、僕宛の水道光熱費の手続き書類が届いた。彼女はちゃんとこの社会システムの中にいて、そことつながっていた。そして手続きを済ませてシステムの外へと出ていった。

僕は届いた書類の宛名を長い時間見つめていた。
僕の名前とされる名が記されている。

ふと思った。
この名前が、今現在とりあえず僕がいていい居場所だ。彼女が残してくれたこの部屋のように。ひとまず僕はこの場所にいていいんだ。家賃や水道光熱費など、この場所の維持のための責任を負うことで。同様にこの名前の維持のための責任を負うことで、僕はこの名前にいていいんだ。
魂の住民票、そうも思った。
このどこにでもあるような名前が僕の存在の住所なんだ。

パタンと音がしてそちらを見ると、本棚に数冊彼女が忘れていった本があり、その一冊が倒れていた。あるいはわざと残していったのかもしれない。

『シャドー ~レンブラントは影をこよなく愛した~』と題された画集がそれだった。彼女はレンブラントが好きだった。二人でよくいろんな肖像画のポーズをとっては写真を撮り合ったのを思い出した。

今の僕は影さえ失いかけている。

僕と一緒になる女性はみんないつもいなくなってしまった。
あるときは旅に出ると言い、またあるときは他に好きな人ができたからと。
そうして最後はいつも一人になった。空っぽの部屋のように、僕には何も残されなかった。

結果的に身軽になった僕は、その一人の時期に様々なアイデアをすぐに実行するチャンスを得た。いや、僕にとってはチャンスというよりもギフトに近いものだった。自力ではどうしようもない得がたいものが与えられたのだから。

僕にとって身軽さは、ひとつの恩寵とでもいえるものだった。
それで僕は、その身軽さを大変丁寧に扱った。
毎夜与えられた大小さまざまな、夢という名の神託から選んだ行動にその身軽さを当てた。
あるときは、自分が昔住んでいた土地の出身だという妻帯者が登場してきたので、久しぶりにその土地を訪ねていったり、またあるときは死んだ友人が夢に現れて、その墓参りに足を運んだ。

出来るだけ空っぽの部屋の身軽さを保ち、僕は動いた。
再びその部屋に誰かがやってくるその時まで。

(第3話/全10話)

☽ 第4話へ ☽

関連記事