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盲目の精度、サイボーグの精度

5月のある日、地下の町にいる象の顔をした人に、夢で会いました。

彼は自分の容姿に胸を痛めていて、悲しそうにしていました。
そして地下の世界を自分の世界にしようという想いが伝わってきました。
私は醜いとは思わなかったけれども、すごい悲しみが彼から伝わってきました。
それからしばらく、奇形ってなんだろう?という思いが心に去来していました。

そんな折り、人間の身体的精度にまつわる映画を2本観ました。
一方は欠陥のある身体を扱い、もう一方は完璧な身体を扱った正反対な2作品でした。
前者の映画というのは『山のあなた』という草彅 剛さん主演の作品です。
草彅さん扮する盲目のマッサージ師が山の温泉場で一人の女性に恋をするという恋の話なのですが、私には「身体で観る」ということを考えさせられる映画でした。
彼は目を通しては見えない分、その他の感覚、特に触覚を使って世界を体験しています。
はたまた気配にも非常に敏感で、すれ違っただけで、その女性だと気づきます。
映画の冒頭、仲間のマッサージ師と、通りの反対から歩いてくる子供たちの数を当てっこしながら、昨今の目開きの人々の感覚の鈍さを嘆いたりもしていました。
〈人間の精度〉と〈人間の身体的精度〉の関係は、反比例の関係になる1つの例がこの作品にありました。
というか、身体的に精度が低いというのは目の見える人間の側からの視点であって、むしろ逆から見たら、色々な感覚を持ち合わせている分、一つ一つの精度を鈍らせているのがこちら側の人たちとも言えますね。

ちなみにこの映画は1935年の『按摩と女』という日本映画のカバーで、セリフやカットや構図等まったく当時と同じということです。
つまり70年以上も前の人たちと、人間の精度の善し悪しを共有し合える作品でもあったのですね。

そうして映画の最後では、恋の想いがその精度を狂わせるという感動のクライマックスつきで、その狂いが実に人間らしくて温かい気持ちにさせられるのでした。
不自由だからこそのジタバタがいとおしいなぁと実感。
こうして、映画という視覚に限定された世界を体験する私自身の目の精度も少しは上がったかな?

〈人間の身体的精度〉にまつわるもう一つの映画は『僕の彼女はサイボーグ』という作品です。
こちらは人間の理想の精度を託された存在と言えるサイボーグのお話です。

映画は、21歳の青年の元に、未来の自分が作った女性のサイボーグがやってきて、自分にこれから降りかかる様々な事故や事件を未然に防いでいくというお話。
そのサイボーグは心を理解できないのだが、人間が係わっていくことによってそれを理解していくように設計されています。
つまりこのサイボーグには、心を宿したダイモンもカルシファーもいなく、かつ自らのカラダにも心を身ごもっていない存在と言えます。
もしかしたら、サイボーグというのは人間が自ら作り出したダイモンでありカルシファーであるのかも知れませんね。
その空っぽの優れたカラダに、私たち人間の心を移し入れて係わっていくのかも知れません。

とするとサイボーグの精度というのは、その身体的な完璧さをどう生かし得るかということになり、その彼ら彼女らに移し入れる私たちの心がそれには関係してくる・・・と。
こうしてサイボーグとの関係は、自分自身の心との関係として見えてきます。

映画の中で彼は、サイボーグの彼女に芽生えたココロを、生き生きとしたエモーションとして味わうことは最後まで叶いませんでした。
しかし彼は、そのココロに非常に奇跡的な形で触れることになります。
それは、未来世界で可能となっている、サイボーグの記憶チップを人間が脳で見て楽しむというアミューズメントを、一人の女性がやり、その記憶に感動して自分の記憶とすることを選択し、さらにその記憶が作られた時代にタイムスリップをし、実際にその彼のいる世界で自分の人生を作っていこうとしたおかげで、可能となりました。
彼はその女性を通して、サイボーグの彼女が実は感じ・表現したかもしれないココロのエモーショナルな面を、カラダ全部・五感を通して体験することができました。
それはつまり、彼自身のココロに彼自身のカラダが出会ったとも言える気がします。

なるほど、SFというのは「Science Fiction」であると同時に「Spiritual Fact(霊的事実)」であるのかもしれませんね。

こうして2作品を観ても思うのは、人間の精度っていうのは、このカラダに宿っているココロをしっかり感じて、それをこのカラダ感覚を通して表現し、他者と共有しあうことなんじゃないかなぁということです。
ココロとカラダの共同創造とも言えるかな。

人間はココロを外側のダイモンなどにではなく、自らのカラダに宿していることで、ややもするとココロを見失いがちなんだけども、そのチャレンジをすることによって、カラダの可能性を広げられる存在なんじゃないかな。そんなことを考えたりもしました。
だから盲目というのはカラダだけで見たら欠陥なのかも知れないけれど、あの草彅さん演じる按摩師のように、ココロを宿した人間というトータルで見たら、実にチャーミングな存在として立ち現れてくるんだろうなぁ、と。
そしてココロを外に持つか内に持つかの二者の中間にいる存在として、地下にいた象人間さんがいるのかもなと思います。

半獣半人の方々は、いわゆるヒトという種のカラダの可能性以上の可能性を示しながら、私たち人間の在り方を映し返してくれてるのかも、ですね。

ヒンズーの神様ガネーシャ似の象人間さんに感謝です(-人-)--―★

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